木枯し
雑感雑記
強い風が吹いてあちこちに落葉が偏り絨毯を作っていて、そこだけが踏むとクッションが効いていてがさりといい音を立て、街路樹はすっかり裸になっている。
木枯しとはよく言ったもので、裸の木々は寒そうにしていて何かのオブジェのようにも見え、集められた足元の絨毯とは対照的に孤立して寂しそうにも見える。
落葉の吹き溜りを見るとどうしても踏んでみたい衝動に駆られ、子供のように何度も足踏みをしてみたくなり、ぐっさりと何度もその踏み応えを楽しんでしまう。
落葉は日本人の決りに因れば燃える塵という分類だが、本来は水を蓄えて山を保護する大切な環境の一部であり、やがて腐葉土となって栄養となっていく。
山では宝、町では塵となるこの落葉は、だが秋の印であり冬への兆しである。
それを踏みたくなる衝動はもしかしたら私達動物の本来の本能かも知れない。
音の響きがどこか獲物の存在を感じさせ、音そのものが何かを駆り立てる。
仮初のハンターのようにかさっという音に聴き入ってしまうのはそのせいかも知れず、何かがそこに居るという事を感じ取りたくて仕方が無い本能が起きる。
誰かが「こんなに溜まって、もう」と言いながら箒で落葉を掃く横を通り抜けながら、人の本能と文化的だと私達が勝手に思っている人の暮しとの違いを感じた。
町での生活というものは大変で、家の周りの掃除もしなければ暮らせない。
天の恵みを掃き捨てながら生きていくのは大変で、しかも自然は気紛れだ。
これ程文化と自然の滑稽な共存は人間という生き物が居るからこそ成立する。
人はただ生きているのではなく、時に自然を愛で、時に排除して過ごしている。
不要な落葉を掃除し捨てた後には、たった一枚のお気に入りの色形の落葉を手に取って、栞にしてみたりしながら秋を感じて生きていて、何とか共存している。
時に自然は私達を猛烈に狩人に仕立て上げ、匂いや音や香に敏感にさせる。
そこにある自然にひどく敏感にさせ、あらゆる現象に何かを強く感じさせる。
そんな時こそが実は生きている証であり、持たされた能力が目覚めるのだ。
この時を措いて他に人が人という動物である事はなく、その人という人類の中に自然を取り入れて文化にする機会はなく、丁度動物と人との融合のタイミングはここにあって、丁度夕声を聴いた時に人と風景を感じるように、合わさるのだ。
木枯しの中を私は行き、寒い思いをしながらも自然の成行きを肌で感じる。
成り行く自然は私達の手の届かない所で大きな動きを見せていて、そんな中にちっぽけな人という生き物がいて、そんな小さな生き物がどう自然と共に生きようかと考えている事自体が面白く、人は狩人と人の顔とを交互にして生きている。
枯れ葉の絨毯は私達が元居た場所を指し示していて、私達を誘惑をしている。
それを踏めば子供に帰ると分かっていながらもつい踏み、そして狩人になる。
想えば子供の頃は狩人で、本能的で、人という物事をよく理解していなかった。
何時からか私達は人になり、やがて子供の頃を忘れて一人前の人の顔をする。
分かっている、実はまだ子供の顔を大切に自分の中に持ち続けている事は。
だから私達は狩人で、人で、何時だって何かしらの特別な何かになろうとしていて、自然の贈物に敏感で、何時も歩く道の中にも自然や人の存在を感じている。
だからこそ日々を生き抜いていけて、時に人で時に狩人で生活できるのだ。
木枯しとはよく言ったもので、裸の木々は寒そうにしていて何かのオブジェのようにも見え、集められた足元の絨毯とは対照的に孤立して寂しそうにも見える。
落葉の吹き溜りを見るとどうしても踏んでみたい衝動に駆られ、子供のように何度も足踏みをしてみたくなり、ぐっさりと何度もその踏み応えを楽しんでしまう。
落葉は日本人の決りに因れば燃える塵という分類だが、本来は水を蓄えて山を保護する大切な環境の一部であり、やがて腐葉土となって栄養となっていく。
山では宝、町では塵となるこの落葉は、だが秋の印であり冬への兆しである。
それを踏みたくなる衝動はもしかしたら私達動物の本来の本能かも知れない。
音の響きがどこか獲物の存在を感じさせ、音そのものが何かを駆り立てる。
仮初のハンターのようにかさっという音に聴き入ってしまうのはそのせいかも知れず、何かがそこに居るという事を感じ取りたくて仕方が無い本能が起きる。
誰かが「こんなに溜まって、もう」と言いながら箒で落葉を掃く横を通り抜けながら、人の本能と文化的だと私達が勝手に思っている人の暮しとの違いを感じた。
町での生活というものは大変で、家の周りの掃除もしなければ暮らせない。
天の恵みを掃き捨てながら生きていくのは大変で、しかも自然は気紛れだ。
これ程文化と自然の滑稽な共存は人間という生き物が居るからこそ成立する。
人はただ生きているのではなく、時に自然を愛で、時に排除して過ごしている。
不要な落葉を掃除し捨てた後には、たった一枚のお気に入りの色形の落葉を手に取って、栞にしてみたりしながら秋を感じて生きていて、何とか共存している。
時に自然は私達を猛烈に狩人に仕立て上げ、匂いや音や香に敏感にさせる。
そこにある自然にひどく敏感にさせ、あらゆる現象に何かを強く感じさせる。
そんな時こそが実は生きている証であり、持たされた能力が目覚めるのだ。
この時を措いて他に人が人という動物である事はなく、その人という人類の中に自然を取り入れて文化にする機会はなく、丁度動物と人との融合のタイミングはここにあって、丁度夕声を聴いた時に人と風景を感じるように、合わさるのだ。
木枯しの中を私は行き、寒い思いをしながらも自然の成行きを肌で感じる。
成り行く自然は私達の手の届かない所で大きな動きを見せていて、そんな中にちっぽけな人という生き物がいて、そんな小さな生き物がどう自然と共に生きようかと考えている事自体が面白く、人は狩人と人の顔とを交互にして生きている。
枯れ葉の絨毯は私達が元居た場所を指し示していて、私達を誘惑をしている。
それを踏めば子供に帰ると分かっていながらもつい踏み、そして狩人になる。
想えば子供の頃は狩人で、本能的で、人という物事をよく理解していなかった。
何時からか私達は人になり、やがて子供の頃を忘れて一人前の人の顔をする。
分かっている、実はまだ子供の顔を大切に自分の中に持ち続けている事は。
だから私達は狩人で、人で、何時だって何かしらの特別な何かになろうとしていて、自然の贈物に敏感で、何時も歩く道の中にも自然や人の存在を感じている。
だからこそ日々を生き抜いていけて、時に人で時に狩人で生活できるのだ。











